研究者になったわけ(2)(ほぼフィクションです)

慌ただしかったが、歯学部を卒業して大学院生となり、国家試験にも合格したので、歯科医師として活動できることになった。結婚もするので、アルバイトをしながら大学院生の日々が始まった。収入源は、大学院生の奨学金と歯科医師としてのアルバイトであった。当時、歯科医師不足でありアルバイトの収入は良かった。しかし、奨学金は将来の借金である。生活費は足りるのか足りないのか、不安定ではあるが、ある意味では気楽な大学院生活が始まった。私は、どちらかというと楽観的に物事を受け止める性格であったが、それが良かったのかどうかは、よくわからない。子供の頃よく父親に思いつきで物事を始めるなと注意されたが、この年になってもその傾向は抜けていないと思うことがある。

K先生に、大学院で何をしたいのかと聞かれた。歯科専用薬物の作用機構をやりたいと答えた。今までに研究した経験があるかと聞かれたので、学生実習くらいしかないと答えると、それでいきなり研究というのは難しいだろうから、1年くらいK先生の研究に参加して、基本的な研究手法を身につけてから、自分のやりたい研究を始めたらどうかと勧められた。根本的に単純なので私はその通りだと思い、まずはK先生のもとでトレーニングを受けることにした。しかし、これは、K先生の仕掛けた巧妙なトラップに見事にはまったようなものであった。

K先生の専門は、Na,K-ATPaseという酵素の反応機構であった。私たちのからだを構成するほぼすべての細胞には、細胞内のナトリウムイオン(Na+)の濃度を低く、カリウムイオン(K+)の濃度を高く保つ仕組みがある。この仕組みを担っているのがナトリウムポンプ(Na-ポンプ)であり、その実体がNa,K-ATPaseという酵素である。Na,K-ATPaseはATP(アデノシン3リン酸)を分解したエネルギーを用いて、細胞内外のNa+とK+を濃度の低い方から高い方へ輸送する、いわゆる能動輸送を行う酵素である。K先生はこの酵素が、ATPの持つ化学エネルギーを、どのような機構でNa+とK+の輸送という物理的なエネルギーに変換するのかということを解き明かそうとしていた。

私が出会ったときK先生は、Na,K-ATPaseにNa+ 、K+やMg2+が結合するときに起こる現象を、難解な酵素反応速度論で解析して、能動輸送の仕組みを明らかにしようとしていた。朝から夜まで研究に没頭し、「守衛さんから節句働きと嫌がられる」と言いながら、どうやら年末年始も仕事をしているようであった。当時の大学には、医師や歯科医師のアルバイトに精を出す先生や、化粧して5時の退職時間を待っている方など、いろんなひとがいた。これが古き良き時代の大学というのなら、改革が必要なのは自明なことのように思えた。その中でK先生は、まさに尊敬に値する方であった。

しかし、助手(現在の助教)であるK先生にはNa,K-ATPaseを一緒にやる弟子はおらず、一人でできることには限界があるので、研究者としては苦戦していた。そこに、金の卵である私が加わった。K先生は私に、Na,K-ATPaseの分子構造変化を明らかにする仕事をやらないかと提案した。何も知らない私は、その仕事を始めることになった。(続く)


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