研究者になったわけ(5)(ほぼフィクションです)

アメリカで、私は研究を始めてから初めてゆったりとした生活をできたような気がする。朝は8時過ぎには出かけたが、夜は7時頃には帰宅して家族と食事をした。英語はうまくはなかったが、Post先生とは、研究上必要なことは言葉がなくても理解できる面があるので、必要な意思疎通には困らなかった。ナッシュビルという街は明るくゆったりとしており、アパートの周囲の人たちも日本人には好意的であった。経済的にも、初めてゆとりを持てた。休みが続くとシカゴ、セントルイス、メンフィス、アトランタ、ニューオリンズとあちこちに出かけた。なんといっても最も良かったのは、人間関係に気を遣う必要がなくなったことだった。日本のことはほとんど考えずに過ごした。

しばらくしてK先生は理学部の教授に転出された。実力があるので当然であったが、私にはうれしくもあり、ほっとした。先生は研究を大きく発展させ、のちに、能動輸送のATPaseに関する国際会議で日本人では初めて会長をされた。

私の2年間の留学はあっという間に終わりが近づいてきた。Post先生から1年後に70歳になり研究から引退するので、あと1年滞在できないかと打診された。A教授にお伺いを立てると、1年ならいても良いとの返事をいただいた。周囲の日本人からは、「それって、あと1年いてもいいけど、その後はよそへ行ってくれ」ということじゃないかとか、いろいろ言われたが、結局3年間米国にいて帰国した。

内心、K先生とのこともあるし、A教授に干されても仕方がないと覚悟していた。研究者として大学にいられるかもわからないと思っていた。しかし、A教授は私を温かく研究室に迎えてくれて、応援してくれ、数年後には助教授にもしてくれた。私はA教授の定年までお手伝いさせていただき、その後、A教授の後任となり仕事をすることができた。

Post先生のもとで研究をしていて、私はこういう人たちと同じ土俵で研究していても勝ち目はないと考えるようになった。帰国後は反応機構の研究からは抜け、主にATPaseをターゲットにした薬物の作用の研究にシフトした。学生に薬理学を教え、教科書の執筆などにも加わった。一方で、50名ほどの大学院生に学位論文の研究を指導した。この数は相当多いが、若い頃目指していた研究者像からはかなり外れてしまい、研究者というより、教育者として仕事をしてきたような気もする。

私は幸運であったと思う。いつのまにか研究者となって仕事をすることができたが、K先生、S教授、A教授のどなたがおられなくても、今のような私はいない。ひたすら、感謝である。

定年退職から7年も経過したが、今年からまた、現職の教授から頼まれて孫のような年齢差の大学院生の指導を楽しんでいる。やはり、研究・教育が好きなんだろう。(おしまい)


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