研究者になったわけ(4)
1年目の大学院生活が終わる頃、助教授(今の准教授)の先生が他大学の教授として転出されることになり、K先生が助教授に昇進されることになった。あるときS教授から、大学院を中退して助手にならないかとお話を受けた。多分、K先生の推薦が大きかったのだと思う。教授は、「助手になれば、給料にボーナスもあり生活のことを心配せずに研究に打ち込めるよ」と勧めてくださった。魅力的な話ではあったが、元々4年間の研究生活のつもりであったし、簡単に決断はできなかった。K先生はこんなチャンスは二度とない、という。父親に話すと、研究者としての能力が私には不足していると思っているようでもあり、反対され、将来後悔するぞと言われた。今考えると、父の意見は当たっていると思う。妻は、やりたいことをやればいいと言ってくれた。結局、4年経って学位(いわゆる博士号)を取得したところで考えようと思い、私は大学院の中退を選択した。
当時、基礎系の教員であっても、週1日くらいであれば、歯科医師のアルバイトは普通に行われていた。生活は楽になる。周囲からも、将来歯科医師をやるかもしれないからと、アルバイトの継続を勧められた。しかし私は、アルバイトをせず研究に専念することを選んだ。自分には二足のわらじを履く能力はないと考えたのが主であるが、K先生から、「医者や、歯医者は逃げ道があるから、研究に専念できない人が多い」とたびたび言われていたことも大きな理由であった。確かに周りにはK先生が言うような人もいた。尊敬するK先生の前で、アルバイトをするのはためらいがあり、退路を断って進むことにした。助手にはなったものの、奨学金の返済も始まり経済的には結構大変で妻にはすまないことをした。今でも歯科医師免許は持っているが、結局、私が歯科医として仕事をしたのは大学院の1年間だけとなった。
その後数年間、若手の研究者としては研究成果も多く、研究費などの採択率も高く順調な研究者生活を送った。博士の学位も取得した。しばらくして、S教授から、他大学から助教授の候補として迎えたいという話があるが、行かないかとお話があった。昇進も早く、経済的にも楽になるだろう。少し考えたが、K先生からは、せっかくここまで一緒にやってきて、今出られては困ると言われた。妻に話すと、積極的に行きたいのでなければ行く必要もないとの意見であった。いろいろ考えて、結局お断りすることにした。S教授からは、「教授に行けといわれたら行くもんだよ」とのお言葉をいただいただけで、それ以上のおとがめはなかった。
順調な研究生活が続いたが、最大のピンチが訪れた。S教授の定年退職の時期が来たのだ。K先生はS教授の後任として立候補した。研究業績としては勝っていたが、総合的な評価で選考されず、後任には他大学からA教授が着任した。私はK先生とA教授の間に入るような形になり、精神的には苦しい状況となった。そんな頃、留学話が持ち上がった。K先生の昔の留学先でもある米国のバンダビルト大学のPost研究室であった。Post先生には、日本に来られたときに何度かお会いしていた。Na,K-ATPaseの反応機構の大家であり、当然行きたかったが、あまりにもタイミングが悪かった。A教授の承認は必須であったので無理だと思ったが、なんと、A教授は2年間の留学を許可してくれた。K先生も了承してくれた。周囲からはいろいろ言われたが、半分逃げ出すような気持ちで、私は家族と渡米した。(続く)